
■ 山口順子「米人ヴァンリード著述の新聞『もしほ草』官許をめぐって」
(2004.11.20 メディア史研究会例会)発表要旨
■ 山口順子 平成14年度東京大学大学院学際情報学府学際情報学専攻
修士学位論文・論文要旨
■ 山口順子「米人ヴァンリード著述の新聞『もしほ草』官許をめぐって」
(2004.11.20 メディア史研究会例会)発表要旨
なお、『メディア史研究』(18号)に論文掲載。『国立国会図書館月報』(534号,2005年9月)所収「稀本あれこれ・もしほ草」において藤元直樹氏に参照いただきました。
東京都公文書館所蔵の東京府文書には、『もしほ草』官許に関する一連の往復文書が含まれている。すでに活字化された文書もあるが、これまでの先行文献では参照されることがなかった。改めて、これらの文書を精査するとともに、異版の比較検討によって浮かび上がった1868(慶応4)年の禁令への対処、翌年の発行差止めそして官許をめぐる問題点について、実証的な考察を試みた。『もしほ草』刊行に関しては小野秀雄解説を元として、治外法権の居留地にあって1868年7月(慶応4年6月)布告の影響を受けずに続刊したとされてきたが、次のような修正を加えることが可能である。
禁令前は、岸田吟香が編集、大黒屋金次郎が発行売捌きにあたっており、禁令後はヴァンリード(Van
Reed, Eugine Miller)編集を前面に出して、居留地で発行されたと考えられる。表紙からは吟香関与の痕跡である桜色の「Ginji
Kicida」印が消え、再版には旭日・富士の絵表紙が使用された。新政府胎動期にあって1868年7月(慶応4年6月)の無許可新聞発行禁止の措置が外国人まで及ぶべくはなく、居留地発行は放置されていた。ヴァンリード自身も抗弁のなかで政府当局からクレームもなく刊行に問題はなかったといっている。
1869年4月(明治2年3月)、新政府下での新聞紙条例附録によって外国人発行の邦字紙ははじめて法規制の対象となった。開成学校は神奈川県裁判所を通じ、各国領事へ同条例の各国民適用を公布するように依頼している。駐日米国公使が、のちの1875(明治8)年新聞紙条例のように、このとき自国民へ公布したかどうかは未確認だが、ヴァンリードには順法姿勢があった。
『もしほ草』無免許発行の疑いで発行停止後、官許印偽造嫌疑を合わせた神奈川県裁判所からの訴えを受けて領事裁判開廷が通告されたが、実際には開廷されなかった。外交的取引によって条例の適用は領事裁判権を通じてではなく、日本の行政権のもとで行われたといえる。ここで開成学校が当初示していた内外差別なしという理念は実際の運用では覆され、免許要求を粘り強く続けたヴァンリードは、日本人発行紙には課せられない草稿検閲という条件と引き換えに免許を手にした。
諸官庁の連絡不備という不運もあってか、免許後の東京府下売捌許可を得るまでさらに4ヶ月以上費やし、草稿検閲も受け、定時発行のままならなくなった『もしほ草』、すなわち民間の日本人と外国人の協力による普通の人々のための新聞は、こうして廃刊していった。
* 『もしほ草』表紙第一編から第十三編までの変遷と分類表(エクセル)
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「東京府史料」等関連史料抄(例会時配布)(エクセル)
時系列に整理したため、文書の収受関係に従っていないことをあらかじめお断りします。
「市民性開発と情報教育の可能性−高度情報文化社会の形成をめざして」論文要旨及び文献一覧 (pdf)